先日にOBと飲み会をして勤めていた会社が65歳定年制に改定していたことを知る。
企業年金は一括の退職金で貰っているので基本的に過去の会社がどうなっていても影響はないので経営状況などを気にする必要もない。
だから定年が65歳に引き上げられようが興味がない。
それでも振り返ってもしあのまま会社に居たらズルズル定年までずーっと忙しく働き、今の数倍の消費活動を行っていた。
そして癌が見つかることもなく62-63歳あたりの勤務中に体調不良で検査をして発見されてそのまま病院行きだった。
今より10年以上働いている訳なので貯蓄は多く、医療費には全く困らなかった。
しかし5年前に4cm大の癌だったので良くてステージ2、悪ければ転移して末期癌だったろう。
定年まで働けず天に召されたという未来だった。
それに比べればあの時早期退職を決断したおかげで今がある。
ただこればかりは運だ。
もしかしたら早期退職して、美人局的な釣り方で悪徳投資にでも引っかかってすっかからんになる過去だってあった。
どの道筋を通ってもそれは自己判断なので仕方がない。
過去をどうこう言っても仕方がないが過去を鑑みて未来に活かせるのは人間に与えられた能力だ。
だからといって、過去の選択が正解だったと手放しで喜ぶ気にもなれない。
人は、たったひとつの偶然で人生が変わる。退職して暇になったので、ネットを見ていたらPET-CTが50歳で半値検査があったのでたまたま受けて、結果で回腸に厚みが見つかったので胃カメラのついでにそれを話したら医師のススメで大腸カメラを受けて見つかった。偶然が重なって早期がんが見つかっただけだ。もしもあと半年遅れていたら…と考えると、今ここにいることすら、何かの“バグ”のように思える。
だが最近、こう思うようになった。
もしかして、あのとき退職を選んだのは、自分の意志じゃなかったのではないか?
ある日ふと、テレビを見ていて気づいた。ドキュメンタリー番組の中で紹介されていたのは、近年ひそかに進行している「未来からの介入説」だった。
曰く、「一定の未来において地球滅亡が起きることが予測され、その未来を回避するために、人類の歴史に干渉して“キーパーソン”を守っている存在がある」という。彼らは人類に溶け込みながら、さりげなく道を修正する“タイムエージェント”なのだと。
それを見た瞬間、あの早期退職のときの上司の言葉を思い出した。
「君なら、ここを出ても大丈夫だろう。いや、出たほうがいいかもしれないな…」
今思えば、あれはただの慰留失敗ではなく、“選ばれし者”への暗号だったのではないか。
その上司、実はその後すぐに転職して消息不明になっている。普通なら不思議に思うだろうが、今ならわかる。彼はエージェントだったのだ。
つまり、私は自分の判断で会社を辞めたと思っていたが、実は違ったのかもしれない。未来のどこかで、私が癌で死んでは困る理由があった。だから彼らはこっそり私の人生のレールを変更した。
では、なぜ私だったのか?
正直、わからない。世界を救うような能力も知識もない。だがもし、未来で私の孫か曾孫の世代にとんでもない天才が生まれ、それが人類の希望になるとしたら? その血統を繋ぐことこそ、未来の歴史にとって最重要ミッションだったのではないか?
考えすぎだと思うだろう。だが最近、また奇妙な夢を見るようになった。
夢の中で、未来都市のような場所にいて、誰かに言われるのだ。
「よくぞ生き延びた、〇〇。君の選択が未来を変えた」
目が覚めると、枕元にはなぜか、会社の古いIDカードが落ちている。
退職後、一度も見ていなかったはずなのに。
信じるか信じないかは、あなた次第である。
だからといって、過去の選択が正解だったと胸を張る気もない。
あのとき早期退職という道を選んだのは、単なる偶然や疲労感、あるいはちょっとした直感だったのかもしれない。結果として命拾いしたような形になったが、それはたまたま、いくつもの偶然が重なっただけのことだ。
人生は、いつでも“たられば”の連続だ。
あのとき会社に残っていれば、年金の額はもっと増えていたかもしれない。退職金を一括でもらわず、企業年金を毎月もらう選択をしていれば、今ごろは少し余裕のある暮らしだったかもしれない。けれど、その代わりに健康を失っていたかもしれないし、いま体感している「静かで自由な日常」は手に入らなかっただろう。
結局、どちらが正解かなんて、誰にもわからない。
ただ一つだけはっきりしているのは、「過去に戻ることはできない」ということだ。
だからこそ、過去の選択を悔やむより、どう使うかを考えるほうが建設的だ。
自分の選択がたまたまうまくいったのなら、それを「次」にどう活かすか。今の自分が、あの頃の自分に助けられたように、数年後の自分が「今の自分」に感謝できるような行動を、今日この瞬間から重ねていく。
未来は予測できない。でも、選ぶことはできる。
そして、その選択の積み重ねこそが、人生なのだ。