■ 何が起きているのか?
ディズニーの実写版『白雪姫』(2025年公開)は、公開前から炎上を繰り返し、試験公開では「1スクリーンあたり252ドル」※という極端に低い収益を記録したと報道されました。製作費は2億ドル以上とも言われており、巨額投資に対して結果がまったく伴っていない状況です。
SNSやYouTubeなどでも批判的な声が圧倒的多数を占めており、ディズニーのブランドイメージそのものに悪影響を与えかねない事態となっています。
※一般的にスクリーンあたり1千万円でヒットです。252ドルということは4万円弱です。。。
■ なぜ『白雪姫』は大爆死したのか?
● 政治的イデオロギーが物語を上書き
本作は、フェミニズム的な視点を前面に出した改変が話題になりました。主演のレイチェル・ゼグラーが「白馬の王子に助けられる白雪姫は時代遅れ」「昔のディズニー映画には教訓がない」と語ったことで炎上。
これを受けて、王子とのロマンス要素は削除され、白雪姫は「自立したリーダー」として描かれることになりました。
しかしこの改変は、物語の本質や感情の軸を損なってしまったという批判を招きました。観客は「古典的価値観をただなぞってほしい」のではなく、「共感できるストーリー」が見たいのです。
● キャラクターと世界観の破壊
七人の小人は「魔法の仲間たち」として人種・性別・身長も多様なキャストに変更され、クラシックな世界観は大きく様変わりしました。
小人症の俳優ピーター・ディンクレイジが「ステレオタイプだ」と発言したことが発端でしたが、逆に「小人の俳優から役を奪った」として別の方面からも批判されるというダブル炎上状態に。
● 主演女優の“政治発言”が反感を買う
ゼグラーはプロモーション中にもたびたび政治的・社会的発言を繰り返し、特にディズニーの過去作を「時代遅れ」と否定するような発言が多くのファンを遠ざけました。
SNSでは「そんなに嫌ならなぜ主演したのか?」「夢の世界に政治を持ち込まないでほしい」という声が噴出しました。
■ 観客が拒否したのは「変化」ではなく「押し付け」
多様性やフェミニズムは現代の映画に必要な価値観ですが、それがストーリーやキャラクターの自然な一部として描かれることが求められます。
今回の『白雪姫』は、物語やキャラ造形よりも「こうあるべきだ」という思想が先に立ち、それを観客が見透かした結果、共感も感動も生まれなかったのです。
■ ディズニーはどこで道を踏み外したか?
ディズニーは近年、「DEI(多様性・公平性・包括性)」を重視したコンテンツ制作に舵を切ってきました。これはESG投資※を意識した企業戦略でもあります。
しかし、それがあまりに強調されすぎると、ファンタジーの“魔法”よりも“現実の政治的正しさ”が前面に出てしまい、観客が夢から覚めてしまうのです。
※ESG投資とは、環境・社会・ガバナンスに配慮する企業を評価する投資手法。世界的な潮流だが、行きすぎると観客や消費者とのズレも起きる。ディズニーもESGを意識しすぎた結果、物語性より説教臭さが目立つ作品に。
■ これからディズニーが取るべき道
1. 「物語の力」を取り戻す
政治や価値観を前に出すのではなく、あくまで観客が共感できるキャラクターや物語を中心に据えるべきです。
2. 原作やファンへの敬意を忘れない
古典を現代的にリメイクすることは可能ですが、それには原作への理解と敬意が不可欠です。
3. 表層的な多様性ではなく、物語の中で自然に描く
外見の多様性だけでなく、異なる価値観をもつ登場人物が協力し合うストーリーこそ、真の多様性表現と言えます。
■ 結びに
ディズニーは長年、子どもも大人も夢中になる「魔法の物語」を世界に届けてきました。
しかし今、魔法の王国は「説教の王国」と化し、観客は夢の世界から現実の教訓に引き戻されています。
『白雪姫』の大爆死は、単なる一作品の失敗ではなく、ディズニーの方向性そのものが問われているのです。

前回のディズニーの記事の締めをAIでリライトしてもらったので今回もこれを締めにしておこう。
半年前、自分が書いた記事の中で感じた危機感が、今まさに現実になりつつあると感じている。
当時、ディズニーの変質について警鐘を鳴らしていた識者もいたが、私が感じた「宗教的な危うさ」とは少し異なっていた。
興味本位で「宗教的観点からディズニーの今を警告している人はいないか」と調べてみたが、むしろポジティブな意見ばかり。
しかし、今のディズニーの極端なポリコレ脚本――特に実写版『白雪姫』に見られる思想の押し付けは、どう考えても尋常ではない。
本当に誰もその異常性に気づいていないのだろうか?という疑問が拭えない。
思い出すのは、かつて日本に広まったキリシタン信仰のことだ。
信者たちは当時、キリスト教の「救い」に心酔し、疑うことなく信じ、動員されていった。
それを危険視した徳川家康がキリスト教を排除したのは、「宗教的情熱」が国家や社会を壊す可能性を見抜いていたからだ。
誤解のないように言っておくが、私はキリスト教にも、ディズニーにも個人的な恨みはない。
旅行中に教会に入ることもあるし、ディズニーリゾートに行って楽しんだこともある。
ただし、その“思想”が政治に利用され、盲信されるようになったとき、それは信仰ではなく洗脳だ。
キリスト教もディズニーも、元々は「人を救いたい」「夢を届けたい」という純粋な想いから始まったものだろう。
だがそれが、権力やイデオロギーの手に渡り、利用されてしまった瞬間、本質は歪められる。
現代のディズニーの作品群にも、まさにその兆しを感じる。
観客が「これはおかしい」と自分の頭で判断し続ける限り、エンタメはまだ健全だ。
だが、「押し付けが押し付けと感じられなくなったとき」――それはもう娯楽ではなく、洗脳の域にある。
そうなれば、かつての徳川家康のように、勇気をもって一線を引く判断が必要になるのかもしれない。