高市式通称利用を小手先だけ変えて幅広く理解が得られる夫婦別姓案、最早夫婦別姓案でもないかも笑

―“文化戦争”を回避する政治的ガードとしての現実解―

2025年、選択的夫婦別姓をめぐる議論に新たな展開が生まれた。かねてより高市早苗氏が提唱してきた「戸籍上は夫婦・親子同姓を堅持しつつ、通称使用を制度的に支援する案」に加えて、国民民主党が新たに発表した“副記載”方式の折衷案が登場。表向きには「多様性に配慮した進展」とも捉えられるこれらの案だが、実態はどうなのだろうか。

■ 現実を動かさない“選べるけど選ばれない”制度

高市案も国民民主案も共通して、「戸籍制度の骨格は一切変えない」という前提を貫いている。国民民主案においても、戸籍上の筆頭者の姓を家族全体の基本としつつ、結婚相手が旧姓を使用したい場合は、その旧姓を戸籍に“副記載”し、公的にも正式に使用できるようにするというものである。

これによって何が変わるのか。制度設計上は“選択的別姓”を装うが、実態としては97%以上の夫婦が従来どおり「夫婦同姓」を選び続けるであろうと見られている。つまり、社会の慣習や手続き上の簡便性から、別姓が大きく広がる可能性は極めて低い。

■ 「姓」をめぐる文化戦争を封じ込める保守的ガード

選択的夫婦別姓を推進してきたリベラル勢力にとって、姓の選択は単なる利便性の問題ではなく、「個人の尊厳」「ジェンダー平等」「戸籍制度の見直し」、さらには「家制度の解体」「天皇制の再定義」(→男系天皇廃止からの日本の歴史と文化の断絶)にまで連なる“日本文化の構造改革”の突破口であった。

そのため、姓の制度をめぐる議論は、単なる民法改正にとどまらず、保守・リベラル間のイデオロギー対立の象徴でもあった。しかし、今回の国民民主案は、その突破口を制度的に“無害化”する意図すら感じられる。

副記載という形式は、見かけ上は多様性を容認しつつ、戸籍という国家管理制度の根幹は一切揺るがさない。「家族の一体性」と「行政効率」の名の下に、改革のエネルギーを封じ込める巧妙な政治的妥協である。

■ 左派の失望と、保守にとっての“象徴的勝利”

この副記載方式が採用されれば、左派にとっては象徴的な敗北となる。なぜなら、

  • 戸籍制度の維持という“大本”が守られ、
  • 法的な意味での完全な別姓は実現されず、
  • 社会の大多数(97%以上)が現状を維持し、
  • 天皇制や家制度への波及も起こり得ない

という現実が突きつけられるからである。特に、左派が長年訴えてきた「家父長制的国家構造の見直し」というビジョンは、制度的に遠ざけられた形となる。

■ これは本当に“夫婦別姓案”なのか?

こうして見ると、国民民主案はもはや「選択的夫婦別姓」とは呼べないほど、現行制度を巧みに保守している案である。旧姓を副記載し公的にも使用できるようにするという措置は、小手先の調整にとどまり、姓という社会的アイデンティティの本質的自由には踏み込んでいない。

それでもこの案が成立すれば、制度改正を望む少数派には「一定の配慮を示した」という名分を与えつつ、保守派にとっては「体制の象徴的価値(戸籍・家族観・天皇制)を守った」と言える着地点になる。

■ 結論:改革でも維持でもない、“象徴性の排除”

国民民主案は、高市案の延長線上にある「現状維持に見せかけた制度安定化」の帰結である。名目上は「多様性への対応」として評価されるかもしれないが、制度の本質を変える力を持たない以上、保守本流にとっては“負けない改革”、リベラル側から見れば“象徴性を失った敗北”という形に収束する。

夫婦別姓論争は一つの局面を迎えた。しかし、それは決して「多様性が勝った」わけでも、「自由が保障された」わけでもない。むしろ、日本的な政治の文法――現実は変えずに象徴だけ書き換える――が見事に発動された事例として記憶されるかもしれない。

おーら
おーら
この件は玉木代表はChatGPTとにらめっこしながら榛葉幹事長の「戸籍は何がなんでも現状維持だ」という圧力を受けて頑張ったようだ。戸籍システムが守れて子供の姓が家長に統一され、旧姓を法的に使いたい人が使えるならるあとは好きにしてという感じなので、圧倒的な左翼を候補者に取り込んだ件とは別に、国民民主が大好きな言葉の「是々非々」で評価したい笑 もし今後旧姓を正式苗字として通称が使えなくなると困る女性の方もいるんじゃないかな?職場では旧姓を使いたいがプライベートではお子さんのママとしては子供と同じ姓とうまいこと使い分けたい人もいるやろ。もちろん養子に入った旦那さんならその逆もね。そっちの方が多い気がするぞ。

まさに騒いでいるのはこれじゃないw


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