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尾身会長の発言が物議──ワクチン接種と国の責任を考える

筆者はテレビを持っていないため、読売テレビ系の討論番組「そこまで言って委員会NP」で尾身茂氏(元新型コロナ対策分科会長)がどのような発言をしたのか直接は視聴していない。しかし、Yahoo!ニュースなどで報じられている情報によれば、彼の発言がネット上で大きな批判を集めているようだ。

尾身氏は番組内で「コロナワクチンによる死亡はほとんどない」「あるとしても偶然の一致」といった趣旨の発言をしたとされ、これに対してSNSでは「被害を訴えている遺族に対する配慮が足りない」「国の説明責任を放棄している」といった声が噴出している。

筆者は、ワクチンを無条件に推奨する「ワクチン至上主義」でもなければ、全てのワクチンに懐疑的な「反ワクチン論者」でもない。ただ、ひとつの冷静な疑問として、国家としてやるべきことがあるのではないかと考えている。

それは、「ワクチンを打ったことで亡くなった可能性のある人がどれだけいたのか」「ワクチンを打たなかったために亡くなった人がどれほどいたのか」といった、両面からのデータを客観的に分析・公表することである。

このような分析は単なる統計ではなく、今後の医療政策や国民の信頼に関わる重大な責務だ。ワクチン接種は個人の判断ではあるが、接種の是非を問うための判断材料となる「事実」を提供するのは国家の役割であり、納税者の立場から見てもそれは当然の義務であると筆者は考える。

新型コロナ対策には多額の国家予算が投じられた。ワクチンの購入費用、接種体制の整備、広報活動など、総額は兆単位にのぼる。であれば、その効果と副作用の両面に関して、国民に対して丁寧な説明と検証結果を提示するのが筋ではないだろうか。

尾身氏の発言が炎上している背景には、「一方的なストーリーで国民を動かし、その後の検証は曖昧にされてきたのではないか」という疑念がある。たとえ意図がなかったとしても、「偶然の一致」という言葉で片付けられるべきではない重みが、そこにはある。

科学的根拠に基づく冷静な議論を求める一方で、政策決定に関わった専門家や行政機関には、過去の施策を振り返り、必要であれば反省し、国民に正直に向き合う姿勢が求められているのではないだろうか。

おーら

ほんと、日本人って「責任を明確にする」ことが苦手な民族だなと感じる。これは今回の件に限らず、企業でも行政でもよく見られる。教育の問題なのか、民族性に根差したものなのか──。

責任回避の傾向はアジア全体にも共通している気がする。中には「逃げることが文化」みたいな国もあって、それに比べれば日本はまだ責任を取るほうなのかもしれないけど、やっぱりどこか曖昧だ。

AIとの対話でも面白いのが、アジアの「責任」は謝罪で済ませようとする傾向が強く、欧米では「再発防止策を含めた実質的な対処」が責任とされているという違いがあるという指摘。確かに外資系企業で働いていた頃は、「責任を取る」とは、被害を最小限に抑え、納期の遅れをリカバーし、同じミスを二度と起こさない体制を整えることだと叩き込まれていた。

だからこそ、ただ謝罪するだけで終わる“アジア的な責任の取り方”には、どこか物足りなさや歯痒さを感じてしまうのかもしれない。

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おーら: