「説明しない自由」で信頼を失うメディア 国分太一“降板報道”に見るマスコミの劣化

日本テレビは6月20日、TOKIOの国分太一氏に関するコンプライアンス違反が「複数」あったとして、『ザ!鉄腕!DASH!!』からの降板を正式に発表した。しかし、世間を驚かせたのはその“理由の不在”だった。

発表では「プライバシー等の観点から説明を控える」とされ、何をしたのか、いつ行われたのか、誰に対する行為だったのかすら明かされていない。にもかかわらず「重大な問題行為」「第三者の弁護士による調査結果を踏まえた」と記されるだけ。読者や視聴者にとっては「何が起きたのか全くわからないまま、重大な結論だけを突きつけられた」印象しか残らない。

これはマスコミとして極めて由々しき事態である。

■ 報道機関の“説明責任”の放棄

本件で問題なのは、事務所や本人が説明を避けていること以上に、マスメディアである日本テレビ自体が“何も報じていない”ことだ。自社の番組出演者が「重大な問題」で降板するという一大事に際し、その内容に一切踏み込まない。しかも報道として出された文書は、広報と変わらない一方的な声明文だ。

マスコミとは本来、事実を正確に伝え、公平に報じ、説明責任を果たすことで社会的信頼を担保する存在である。だが今回のように「重大な問題がありました」「でも説明はしません」とだけ報じれば、視聴者に残るのはただの“疑心暗鬼”と“憶測”だけだ。

これでは、報道機関が「情報の交通整理役」どころか、情報の隠蔽に加担しているのと同じである。

■ プライバシーの盾に隠れる不誠実

確かに、プライバシーや被害者保護の観点は重要だ。だが、「それを理由に何も説明しない」という姿勢が常態化すれば、報道の意味そのものが失われる。

特に今回のように、法的処分が行われたわけでもない段階で「コンプライアンス違反」とだけ記すのは、曖昧なまま社会的制裁だけを先に下す危険な行為だ。これは報道の“説明責任”と“公益性”のバランスを著しく欠いている。

視聴者は、何をどう判断すればいいのか?「内容は言えませんが悪いことをしました」と言われて納得する人間が、果たしてどれだけいるだろうか。

■ メディアへの信頼低下とその帰結

近年、テレビ・新聞を含めた“オールドメディア”の信頼は低下傾向にある。その背景には、政治・経済・芸能など、あらゆる分野で「報じるべきことを報じない」「説明すべきことを避ける」体質がある。

今回の国分氏の件は、まさにその縮図だ。何も明かさず、結論だけを公表する。まるで「騒ぎになりたくないから形だけ処理した」と言わんばかりの対応は、メディアとしての自殺行為である。

■ いま必要なのは「説明する勇気」

真にコンプライアンスを重視するならば、説明を放棄すべきではない。内容をすべて明かすことが困難なら、「何が明かせて、何が明かせないのか」「どのようなプロセスで調査が行われたのか」「当人はどのような態度を示したのか」など、最低限の納得材料は提供できるはずだ。

説明責任を果たせないメディアは、やがて誰にも信用されなくなる。国分氏の問題以上に問われるべきは、日本テレビを含む“報道機関のあり方”そのものである。


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