「こちらにどうぞ」が許せないあなたへ──余計な仕事を増やす人の話

ある日、X(旧Twitter)で話題になった、スーパーでよくある「ご意見カード」。そこに書かれていた内容は、思わず二度見したくなるものでした。

「お店の都合で閉めていたレジを開けて『こちらにどうぞ』はないでしょう。

申し訳ないなら『こちらにお願いします』ではないでしょうか?」

一見すると、言葉遣いや礼儀に対する上品な指摘のようですが、読み進めると、ただのクレーム。しかもその根底には「お客様である自分は、最大限の敬意を受けるべきだ」という思い込みが透けて見えます。

この意見に対して、ネットでは「指図されたと感じたの?」「高級ホテルにしか行ったことがないのか?」といった皮肉や驚きの声が多く寄せられました。

私も、最初は同じように感じました。けれど、ふとあることに気づかされたのです。

こうした“どうでもいいこと”に腹を立て、わざわざ意見箱に書き込む行為は──結局のところ、自分で自分の仕事を増やしているようなものではないかと。

そのご意見カードの最後には、「お互いに忙しいですから。早めに対応してほしいです」とも書かれていました。つまりこの投稿者は、ご本人の心理状態では「忙しい中でわざわざ」これを書いたのです。

でも、その“忙しさ”って、本当に必要だったのでしょうか?

たとえば、「こちらにどうぞ」と言われたとき、にこやかにレジに向かえば、それで終わった話です。そこで「もっと丁寧な言い方があるのでは」とモヤモヤし、それを言語化し、紙に書き、意見箱に投函する──。それだけで何分、あるいは何時間も心を消耗しているかもしれません。

これはまるで、自分で地雷を仕掛けておいて、自分で踏みに行って「爆発したじゃないか!」と怒っているようなものです。

もちろん、不快な体験を言葉にして伝えること自体は悪くありません。しかし、日常の些細な感情の引っかかりをすべて“クレーム”として処理し続けると、生活はたちまち“戦場”になります。誰の言葉にも態度にもいちいち腹を立て、最終的に一番疲れてしまうのは、自分自身なのです。

「客である自分が上」という意識は、残念ながら今でも多くの場面で見かけます。でも、それを当たり前だと思い続けると、やがて誰にも相手にされなくなってしまうかもしれません。誰も「ご意見カード」に耳を傾けなくなったとき、その声はただの独り言に変わるのです。

言葉に対する感受性は美徳です。でも、それが他人を責めるための武器に変わってしまったとき、それはもう“マナー”ではありません。

もしあなたが、「あの店員、またあんな言い方を…」と、心の中でしょっちゅうつぶやいているのなら、一度こう問いかけてみてください。

「その“こだわり”、自分の人生を豊かにしているだろうか?」

ほんの少し、他人に寛容になるだけで、日々の暮らしはもっと軽やかになるはずです。

ここでひとつ、極論かもしれませんが提案があります。

日本にも、チップ制度を導入したらどうでしょうか?

気持ちのよいサービスを受けたなら、チップで感謝を伝える。その代わり、「ただの接客」に過剰な“おもてなし”を求めない。そういう仕組みです。

そもそもスーパーは「物を買う場所」であり、「一流ホテルのような接客」を期待する場所ではありません。それでも「気持ちのいい対応」を受けたいなら──高級スーパーのようなサービス料込みの場所を選ぶか、自らチップを渡せばいい。

格差が広がり、みんながみんな“おもてなしの精神”で働ける時代ではなくなってきています。

なのに、どこでも誰にでも完璧な接客を求めていたら、いずれ誰も応えられなくなるでしょう。

“サービスは無料で受けられるもの”という前提こそが、現代のストレスを生んでいるのかもしれません。


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